|
|
・今現在の最新の情報は、トップページに表示されるツイッターをご覧ください。 |
|
2011.03.31(木) 更新のお知らせ
今月の水辺を更新しました。
|
|
2011.03.30(水) 詩
「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。 「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。
言いたいことがすぐには分からないのに、なんだか気になって、何を言おうとしているの?と続きを聞きたくなる。
時々、そんな写真を撮ってみたいと思うのだが、それは上手い人のすることであり、僕なんかのすることではないな、と思い直す。
湖ですか?
いいえ、ただのわだち。
 NikonD700 SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONALFISHEYE +1.4X SILKYPIX
 NikonD700 SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONALFISHEYE +1.4X SILKYPIX
金子みすゞさんの優れた詩も、立て続けに流されると、さすがにうんざりしてしまう。
逆に、CMの自粛が終わり最初に目にしたのは、日頃くだらないにも程があると思っていた携帯ゲームのコマーシャルだったのに、なんとホッとしたことか。
くだらないのは、平和の証。
くだらないものとか下世話なものも、きっと人間には必要なんでしょうね。
|
|
2011.3.28〜29(月〜火) 2種類の感情

NikonD700 AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX

NikonD700 AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX

NikonD700 AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX

NikonD700 SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONALFISHEYE +1.4X SILKYPIX
近所の田んぼに咲き乱れる春の花。
田んぼは、乾いたり、掘り起こされたり、水が張られたりと一年の間に大きく変化をする環境であり、田んぼの植物は、そうした変化に適した植物ばかり。掘り起こされたところで、また来年になればたくさんの花が咲くのだから、なんのことはない。
むしろ掘り起こされなくなれば植生が変わり、やがて別の植物に支配されてしまう。
だが一方で、田が起こされ、お花畑がなくなっていく様を目にすると、なんだかさみしい気持ちにもなる。
別に田んぼの植物に限った話ではなく、すべての生き物は、やがて死んでしまい、それが自然だと分かっていても、やっぱり寂しさを感じる。
僕の中に、相反する二種類の感情が共存する。
僕が写真のテーマにしているのは、その2種類の感情のうちの前者の方だ。
後者の掘り起こされる植物たちを見て寂しいと思う感情は、あくまでもプライベートなものであり、公に向かって発信するようなものではない気がして、それを形にしようなどと考えたことはない。
ただ、その寂しいと思う感情がなければ、春にまた花が咲いた時に嬉しいと思う気持ちが込み上げてくることはないだろうし、会えてうれしいという思いが込み上げてこない生き物の本は、例え自然科学物であっても、つまらない本ではなかろうか。
矛盾しないようにするのではなく、矛盾するものが上手に共存できるようにすることが、案外、大切なのだ。
|
|
2011.3.26〜27(土〜日) 美し過ぎる被写体

NikonD700 Carl Zeiss Distagon T* 2.8/25mm ZF SILKYPIX

NikonD700 Carl Zeiss Distagon T* 2.8/25mm ZF SILKYPIX
写真を撮っているという理由で、あたかもアーティストであるかのような扱いを受けることがあるが、僕は写真の技術者であり、アーティストではない。
まず第一に、アーティストのみなさんのように、自分の世界にどっぷりと浸かることが、僕にはできにくい。
自分ができないだけでなく、人が自分の世界に入り込んでいるのを正視するのも、どうにも恥ずかしくて難しい。
テレビの番組で平井堅さんが歌っている姿を初めて目にした時などは、あまりの熱唱ぶりに、茶の間で見ている僕の方が恥ずかしく、こそばゆくなってしまってしまったものだ。
平井さんがブレークして間もないころだったから、いい声だな。どんな人が歌っているのだろうと興味を持っていたのに、
「わかった。もうわかったから許してくれ、堅!」
と逃げ出したくなったものだった。
また、ある写真家が、花の写真が難しいのは、花が美し過ぎるからだと書いておられるのを読んだ時にも、恥ずかしくて、慌ててページを閉じた。
「なんでそんなキザなことが言えるのか?」
と。
ところが、自分が花にカメラを向けてみると、なるほどなと思うようになった。
花は、撮っても撮っても、僕の目に見ているようには写らないし、ここのところは、帰宅をして撮影した画像をパソコンのモニターに映し出してみてはガッカリすることの繰り返し。そして、なんでこんなに花の写真は難しいんだ?と突き詰めていくと、花は美し過ぎるからとしか言いようがなのだ。
手を変え、品を変え、さまざまな表現を試してみるが、花は、決して僕の目に見えているようには、写真に写らないのである。

NikonD700 LEICA APO-MACRO-ELMARIT-R 100mm F2.8

NikonD700 Ai AF Micro-Nikkor 60mm F2.8D
|
|
2011.3.24〜25(木〜金) ふるさとの山(後)

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U SILKYPIX

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U SILKYPIX
山の麓にダムができた関係で、登山道が一部大きく変わっており、子供の頃にはなかった場所に、新たに道が作られていた。
こんな場所があるんだぁ。山道の脇に、小さな渓流があった。
規模も小さく、特別に写真映えする場所ではないが、直方市民にとっては、市内にこんな流れがあることを知ったなら、嬉しくなる方もおられるに違いない。
緑がはえる季節に、また歩いてみたい。
今回は山登りが目的であり、写真を撮りに行ったわけではないが、写真を撮りたくなった。
望遠レンズを使って、流れの中の絵になるところだけを切り取れば、そこそこさまになる写真が撮れるだろうと思う。
だが僕は、風景にカメラを向ける際には、そうするのではなく、全体を広く見せたい気持ちが強い。僕が人にみせたいのは、武田晋一の、写真機を使った絵画の世界ではなくて、ありのままの自然なのだ。
カメラマンによって上手に切り取られた風景写真を見て、なんてきれいな場所だと憧れてそこに行ってみたら、実はきれいなのはそこだけで、周辺はコンクリートやアスファルトで塗り固められているなどという経験をたまにする。
望遠レンズを使えば、きれいな場所だけを切り取ることができるが、僕は、その人が実際にその場所に行ってみた時に、ああ、写真で見た通りの場所だと感じられるような写真を撮りたい。
(撮影機材の話)
オリンパスのPEN Lite E-PL1sを胸からぶらさげて歩いた。
レンズ交換ができる本格的なカメラでありながら、実にコンパクト。コンパクトでありながら、実に見事な写り。描写についてはところどころ弱点もあるが、それを知った上で、弱点をさらけ出さない撮り方をすればいい。
小型軽量で負担にならないから、山歩きが楽しい。大きくて重たいカメラが、いかに山の楽しみを奪っていたるのかに、改めて気付かされる。
PENシリーズに使えるレンズは、いずれ魚眼から望遠まで細かく揃えて、あらゆる撮影に対応できるようにしたいと思うのだが、一気に買い揃えるような買い方はせずに、一本ずつ丁寧に丁寧に買い揃えたい。
1つ苦言をいえば、オリンパスのRAW現像ソフトは、操作性や機能や動きが悪い。
こんなにいいカメラを作っているのに、いつまでソフトを放っておくつもりだろうか。
今回は、SILKYPIXを使ってみた。
僕は、ニコンのカメラとSILKYPIXの組み合わせを気に入っているのだが、オリンパスの場合は、SILKYPIXでも悪くはないものの、純正ソフトの力強い画質が合っているように感じている。
|
|
2011.3.23(水) ふるさとの山(前)

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U SILKYPIX
子供の頃、ある日父が寝袋とダンロップ製のテントを買ってきた。
山に出かける前に、まずは自宅の屋上にテントを張り、一晩試しに寝てみて、その後野外ではじめて使ったのは、確かこの小屋の下ではなかったあろうか?
30年以上前の話になる。

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U SILKYPIX
小屋から山頂へと続く山道は、上に覆いかぶさる樹木がなく、赤土が剥き出しになっていて、日差しが強い日にはとても暑くて、きつかった。
ゴロゴロとむき出しになった岩の上には、テンの糞が、点々とあった。
なんの糞だろう?と胸がワクワクしたものだ。
最後にこの道を歩いたのは、多分20年くらい前のこと。その後僕は、大学進学のために山口に引っ越した。
その山道を久しぶりに歩いてみると、植林された杉が伸び、植生が変わっていて、どんなに注意深く痕跡を探しても、当時の面影を見つけることができない。

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U SILKYPIX
その杉も、今ではおそらくほとんど手入れがされていないようで、足元からは広葉樹が茂り始めている。
なるほどなぁ。森の獣が住むには適した環境になっていて、おそらく全国で同じようなことが起きているのだろう。野生動物による被害が増えるはずだ。
巷で「森が荒れている」、と言われているのは、植林された木が手入れもされずに放置されているという林業(人間)の視点からの話であり、獣の立場から見れば、むしろ住みやすくなっているに違いない。
自然観察の基礎になるのは、子供の頃に見たふるさとの自然ではなかろうか?なぜなら、自然界には何十年も見続けなければ分からないことがたくさんあり、その人が一番長く観察し得るのは、子供の頃に接した自然だからだ。
先日、水と地球の研究ノート(偕成社)について、
読者が理科の授業を受ける際に、
「先生、僕それ知っているよ。だって、本で読んだもん。」
となってくれればいい。
と書いたが、本当のことを言えば、本に書いてあったり学校で教わることを、その子が野外を歩いて体験できればなおいい。
ただ、それには周囲の大人の理解や知識が必要になるし、すべての子供がそんな環境にあるわけではないので、そこまで触れてないのに過ぎない。
その点本なら、図書館を利用すればみんなに平等に機会が与えられる。
しかし、本では満足ができないという生まれついての自然好きに対しては、何かしてあげたい気持ちがあるし、その思いは、本が完成してからより強くなった。
|
|
2011.3.22(火) 個体

NikonD700 LEICA APO-MACRO-ELMARIT-R 100mm F2.8
一匹の生き物のことを、生物学の言葉で、個体という。例えば、
「この鳥は、昨日もここにいました。」
、というのではなくて、
「この個体は、昨日もここにいました。」
などという風に使う。
その個体という言葉を嫌いだと言う方がおられる。個体だと、なんだか冷たいと。
「私は、個体とよばずに、この子と呼んでします。」
というような主張を耳にすることもあるが、その人なら、
「この子は、昨日もここにいました。」
などという風に言うのだろう。
逆に、
「野生の生き物を、この子などと呼ぶのはおかしい。」
という意見もある。
僕もそちらの方であり、この子などと呼ぶ気には到底なれない。
この子と呼ぶのは擬人化である。つまりその人の空想であって、その人が愛しているのは目の前の鳥そのものではなく、自分自身の空想の中の鳥、つまり自分ではないかと思うのである。
以前、そんな風に言ったら、
「でも、自然科学の研究者の中にも、生き物に名前をつけて呼んでいる人がいますよ。」
という方もおられたが、研究者が生き物に愛称をつけるのはユーモアであり、本気で擬人化をしているわけではない。
空想を否定するつもりは全くない。
僕だって、2本のツクシを、寄り添う二人の人間に見立て、心の中でセリフをしゃべらせてみたりすることもある。
それはそれで人にとって不可欠なものだと僕は信じる。
ただ、それと目の前の現実の生き物を愛するのは全く別のことなのだ。
|
|
2011.3.21(月) 第五巻・ごみ水路水族館

ある自然写真家が、
「せっかく本を作っても、その出版社のホームページの中でさえ、その本がまともに取り上げられておらず、奥まったところにあってなかなか出てこないんだよなぁ。」
と残念そうに話してくださった。
子供向けの本の中心は絵本やお話であり、自然科学物はあまりいい扱いをされない場合が多いのは、僕も感じることだ。
中には、ホームページに載せられてない本さえある。
変えたいなぁ、それを。
正直に言えば、売れるとか売れないとか、注目を浴びるとか浴びないなどという世間の需要を意識するのではなく、自分の作品作りに没頭したい気持ちは多分にあるが、今の僕は、それよりも社会の中にもっと自然について紹介できる枠が欲しい。
どうしたら、変えられるのかな?
僕らは今回、ただ単に自然を紹介するのではなく、学習物という形態を選んだ。自分が日ごろ見ている自然と社会との接点を、教育に求めてみた。
別に学習参考書を作りたいわけではない。
読者が理科の授業を受ける際に、
「先生、僕それ知っているよ。だって、本で読んだもん。」
となってくれればいい。自然現象について知ることが、自主的で面白くあってほしいのだ。
なのに、第五巻は、ゴミや外来の生き物など、今社会で問題になっていることが出てくるがゆえに、どうしても教条的な感じなってしまうことに苦心した。
そういうテーマだけに、逆に、教条的になってはならない巻だった。
それにしても、なぜこんなに教条的になってしまうのだろう?と突き詰めていくと、自分自身が情報を鵜呑みにし、信じ込み、毒されていることに気がついた。
ともあれ、水と地球の研究ノートは、偕成社のホームページのトップページで紹介してもらったり、
twitter でフォローしてくださっている方から聞いたところによると、図書の機関誌に結構大きな広告を出してもらったりもしているようだ。また、図書のカタログの表紙にも採用されたと先日聞かされた。
自然科学物らしからぬ、いい待遇を受けていて、僕らの試みが的を外してないことだけは確かだと胸をなでおろした。
偕成社のトップページで紹介してもらう際に、僕のサインを書かなければならなくなった。僕は字を書くのが大嫌いなのでこれだけはかなり参ったが、練習をして「武田晋一」と書き、よくぞクリアーしたと胸をなでおろしたものだ。
ところがつい先日、やはり偕成社のトップページで紹介されたある自然写真家の欄をみたら、いかにもサインと言う感じの洒落た文字が書かれていたので参った。
カッコいいなぁ。
その方はお父さんの代からの自然写真家で、写真だけでなく写真家自身までもが商品になっているところが、僕なんかとは意識が違う。
真似をして、有名人のようにグチャグチャグチャとサインをしてみたら、急に恥ずかしくなった。
やっぱり、僕には、もっと職人的な世界が心地いい。
|
|
2011.3.20(日) 第四巻・消えない水たまり

北九州市の町の中にある公園。そこに、一年を通してなぜか涸れない水たまりがあって、生き物たちの住処になっている。
今回の企画を練っている段階で、僕が一番心配していたのが、この第四巻だった。
水溜りだけに場所が小さいし、その狭い場所では写真のバリエーションを増やすのが難しいことが予測された。果たして一冊の本を作れるだけの写真が揃えれるかどうか、正直に言えば不確かな部分があった。
場合によっては、少ない量の写真で無理やりに本を作らなければならないケースも想定していた。
ところがどうして、消えない水たまりは、通えば通うほどに違った表情を見せてくれたし、最終的には、見せたかったのにページの関係で見せられない写真が多量に残った。
WEBやデジタルと紙の一番大きな違いは、制限の有無ではないかと思う。
WEBなら、ページ数や文字数はほとんど無制限だが、紙の場合は、限られたページや文字数の中で言いたいことを表さなければならない。
紙の媒体には、常に取捨選択や言いたいことをもっとコンパクトな別の表現に置き換えることが求められる。その結果、内容が精査され洗練される場合もあるし、逆に、言いたいことが伝わらなくなる可能性もある。
何を書くかは決まりきっているのに、決められた行数や文字数に収まらず、ウ〜ン、ウ〜ンと唸りまわった。たった1〜2行が書けなくて、部屋を変えてみたり、椅子に座ってみたり歩いてみたり、ベッドに横になってみたりと、思いつく限りのことを試した。
なんて苦しいんだ!
ところがやがて、そうした作業を、辛いのだけど面白いと感じるようになった。表現と行数や文字数がピタッと決まった時に、編集のOさんから何度か褒めてもらったからかな。
写真撮影にも、文章と同じことが当てはまることがわかった。
僕は、自分が見ているものを見えている通りに撮りたい気持ちが強くて、あまり誇張がない写真が好きだが、限られたページの中で伝えたいことを伝えるためには、時には、一枚で見る人を黙らせてしまうような強い印象の写真も必要だと感じた。
写真の技術面での、次のテーマが見つかった。
|
|
2011.3.19(土) 第三巻・木が生える沼

企画を通すために一番最初にボコヤマクリタさんと作った試作品は、第一巻ではなくて、この第三巻だった。
その出来が良かったのが、企画が成立する一番大きな要因だったし、ボコヤマさんならそれができるはずと見込んだ僕の目に狂いがなかったことは、とても鼻が高い。
試作品の出来が良かったというのは、直すところがなかった、と言う意味ではない。
むしろ、その試作品と実際の第三巻は全く別のものであり、それを思うと、直すところが満載だったのだとも言える。
でも、逆にその試作品に直すところが見当たらなかったなら、今回の企画は成立しなかった可能性がある。直すところがない、ということは、それ以上良くならないということだからだ。
編集のOさんは、修正点の有無よりも、ボコヤマさんの潜在能力を見抜かれたのだということになる。
ふと考えてみれば、例えば高校野球の夏の甲子園大会で他を引き離して優勝した投手だって、プロから声がかからないことが多々ある。高校生の段階で完成された選手は将来の伸びしろが少ないから、などとその理由が語られる。
きっと、何事にも当てはまるに違いない。
では、未完成でもスケールが大きくさえあればいいのか?といえば、そんな簡単なことではない。
未完成なのだから、直さなければならないことがたくさんあり、それを受け入れるだけの強さが求められる。
ここが良くないと指摘され、すねているようでは話にならない。
がしかし、自分の思い入れを一度切り捨てるのだから、それは一種の自傷行為であり、しんどい。その人が一生懸命であればあるほど、その思い入れが強いのだから、しんどさが増してくる。
実は、ボコヤマさんが一番最初に作った試作品に、僕はいまだに特別な思い入れを持っていて、それを改めて見直してみると、胸が熱くなってしまう。
第三巻は、一生懸命になり過ぎて自分が分解してしまうかどうかの、ギリギリのところで作業する制作だったように思う。
この巻で取り上げた山上の湿原は、いずれ別の形でもまとめてみたい気持ちが強い。
ちなみに、ぼくが普段顔を合わせている人の中でも、自らが写真を撮る人には、3巻が一番好きだという人が多い。
|
|
2011.3.18(金) 第二巻・とける岩の洞くつ

第二巻・とける岩の洞くつは、なんといっても不気味な場所だから、その危うい感触を、五感を駆使した思い入れたっぷりの文章で書く予定だった。
そして、それをするためには他の巻もある程度統一した書き方にしなければならないから、先行して作る第一巻の文章を、最初、五感を駆使した表現で書き表してみた。
ところがそれが取って付けたような感じになってしまい、出来が悪く、大幅な改造を要した。
構成のボコヤマさんに迷惑をかけてしまったし、そこで時間をロスしたことは、後の作業を全体に苦しくした。
作り直しになった第一巻は、最終的には科学ものらしい書き回しになり、第二巻もそれに準じた落ち着いた調子になった。
セット本であるがゆえに出来なくなることもあるし、セット本を作ることの難しさを思い知らされた。
一方で、セット本の醍醐味もある。
それは、一冊の本だけではできないことを表現できること。例えば、それぞれの巻のテーマを何にするか、つまり何を組み合わせるのかは、セット本にしかない表現だ。
野球のチームで打線を組む際に、チームの中の誰をどんな順番で並べるかに監督の哲学があらわれるように、各巻のテーマの決め方には、著者の哲学があらわれる。
1〜5巻で何を取り上げたかには、僕の自然感が表れていることだろう。
また、野球の打線を組む際には、スター性のある打者以外に、何かに特化した職人的な打者が必要になるし、チームであるがゆえにそうした選手が輝くように、セット本でも、セットであるがゆえに取り上げることができ、輝くテーマがある。
この第二巻・とける岩の洞くつなどは、一冊の本としては地味過ぎて、企画としては成立しないのではなかろうか。
僕はどちらかというと、そんなテーマが好きだし、それを出版するにはどうしたらいいか?をずっと考え続けてきたのだが、暗い洞窟の写真の中に、それを実現するための光明が見えた気がした。
ただし、リスクも大きい。
企画を通すためには、ある程度写真を揃える必要がある。そして、数冊分の写真を揃えて、その結果企画が通らなかった場合は、大変な労力と時間が宙に浮いてしまうリスクがあるから、セット本の企画を成立させるには、チキンゲーム的な側面がある。
それを乗り越えるためには、何が通用する企画なのか、センスを養う必要があるが、そこにはやってみなければ養えない部分もあり、今回体験できたことは非常に大きいように思う。
僕は編集のOさんが伝えようとしてくださることを、耳をダンボのようにして聞いた。
|
|
2011.3.17(木) 第一巻・町の中の泉

門外漢だった地学を高校生に授業したのがきっかけで、地学の知識の重要さを痛感するようになった。
さらに、かつて自分が教えた地学の現象が、普段写真を撮っている場所にも当てまることが少しずつ分かってきて、ここ数年は地学が面白くなってきた。
そうしたいくつかの流れが1つに集まり、今回の本のコンセプトが生まれた。
場所を定め、その場所の成り立ちと、そこに生息する生き物たちのつながりを語る。
だが集まってきた流れの中には、貫くことができたものもあれば、貫けなかったものもある。そこで今日は、貫けなかった部分を中心に、第一巻の町の中の泉を紹介しようとおもう。
火山が噴火をして、その結果、数十キロ離れた場所に出来た泉。『町の中の泉』には、魚たちを紹介するページがあり、当初僕は、生き物の名前を書かないつもりでいたのだが、途中でそれを変更することを、構成のボコヤマクリタさんに申し出た。
「魚の名前なんですけど、どうしましょう?」
名前を書くことに変更します、と明確に切りださなかったのは、今思えば、書かないでいいじゃないですか!という返事を期待していたのだろう。
本来僕は、その手の会話が好きではない。はっきり自分が意見を言わずに、どうしましょう?と聞くふりをしながら、実は自分が期待する文言を相手に答えさせるような切り出し方は好きになれないが、それを自分でやってしまうくらいに迷っていた。
しかし、さすがボコヤマさん。僕のズルイ誘導に乗るような玉ではなかった。
「書かないことになっていたはずですが?」
と手を渡されたのだった。やっぱり、自分で決めなければならない。
おかげで、
「いや、やっぱり書いておきましょうか。」
と自分で決めることができたし、他人任せにしてしまった、と後で後悔をせずにすんだ。
魚の名前を書かなければ、この本で僕らが伝えたいことは生き物の名前調べではないことがはっきりする。シリーズのテーマはあくまでも場所やその成り立ち。
生き物は、仮にある魚が写っていたとしても、それは生きとし生けるものの代表であり、そこにはすべての生き物が含まれているのだから、写真に写っているその生き物の名前にはこだわりたくない。
しかし、こちらの意図を読んでくださる方は、おそらく少数だろう。むしろ、何で名前がないんだ?と指摘される突っ込みどころになるに違いない。
また、これから作る本がこの1巻だけならともかく、2〜5巻までを統一されたスタイルで作ることを考えると、それが他の巻にも通用するのかが読めなかった。
それでも自分の思いを頑なに主張するのか、それとも手堅さを取るのか迷ったが、結局、手堅さを選んだ。
生き物の名前を書くように変更したということは、第二巻以降も曖昧な箇所を作らず、文学的な物の見方を排除し、自然科学物らしくとにかく丁寧に説明していくことを意味した。
僕にとっては、今回の本作りで一番大きな分岐点だったように思う。
|
|
2011.3.16(水) 企画の理由


昔、僕がある高校で理科を教えた生徒たちから、ここ数日の間に、立てつづけに何件か連絡があった。
「まさかとは思ったけど、先生が東北に撮影にいってるんじゃないかと思って。元気ですか?」
と。
僕は、生物学の出身だけど、年によっては地質学の分野を教えたこともあった。ところが僕自身は、高校時代も含めて一度も地学の専門教育を受けたことがないので、独学で本を読んで地学を学んでから授業をすることになった。
勉強をしてみると、中には東北沖での巨大地震について、今後30年以内に発生する確率はほぼ100%と書かれているものもあった(ここまでのスケールのものになるとは、予測していなかっただろうけど)。
関東の地震についても、かなりの高確率であり、当時十代だった子供たちが高校卒業後にもしも関東に住み着いたなら、天寿を全うする年齢までには、巨大地震を体験する確率の方がはるかに高い計算になった。
「もしも就職するなら、関東は止めた方がいいよ。」
と言ったら、
「発想が面白い。いかにも理科の先生だ。」
とクラスによっては笑いが出たが、いたって本気だった。
「そんなこと言ったら、関東に人が住めんくなるやん。」
「いやいや、迷った時の話よ。例えばさ、就職で東京と福岡で迷ったら、福岡にしておいた方がいいんじゃない?」
「福岡は安心なん?」
僕が福岡県を離れなかった理由の1つには、生死を左右するような巨大地震が起きる確率が国内では低いという理由があったことは、以前にもこの日記の中に何度か書いたことがある。
ともあれ、自然写真の出版は東京以外では成り立ちにくく、いつの間にか関東の知人が増えたし、知人がいると、人の顔が思い浮かんでしまうから心配がリアルになり、ただの心配ではなくなってくる。
できる限りの備えをしてもらいたいものだ。
知る、ということも、大切ではなかろうか。
地域によっては、巨大地震は定期的に発生するものであり、長いスパンで見れば、ほぼ100%なのだ。注意力とか運不運に左右される交通事故とは訳が違う。
なぜ100%なのかは、その発生のメカニズムを知ればすぐに分かるし、それが分かっていれば、可能な限りの備えや、どこにどうやって避難すべきかなどの心の準備の必要性も分かるはず。
僕は、もしも日本に住むのなら、日本の周辺で起きていることについての地学の知識は、小学校の4年生以上なら必須ではないかと思う。
ところが、小学校の教科書を見るとそれにに触れているのは教育出版1社だけだし、児童書でも、日本の地理〜地学と身近な自然の結びつきを分かり易く紹介した本もない。
そこで、そんな本を作ろうと企画したのが、水と地球の研究ノート(偕成社・全5巻)だったのだ。
もちろん、本はその知識が必要かどうかだけで作っているわけではないが、そちらは長くなってしまうので、あえて書かずにおこうと思う。

第一巻 町の中の泉より
|
|
2011.3.15(火) ゴミ水路水族館(偕成社)

水と地球の研究ノート(全五巻・偕成社)の最後の巻、ごみ水路水族館が届いた。
長かったなぁ。
小学校の卒業文集の冒頭に、「長いようで短かった6年間」と書いた人が多かったけど、あれは定番の文章なのだろうか?
僕にとってこの本作りはその逆で、短かったようで、今振り返ってみれば、非常に長い。
この本には、子供たちに自然について伝える「実用」の部分と、僕の趣味の部分とがあるが、実用の部分に関しては、自然科学物の児童書の中では、稀に見るよくできた本だと思う。
実用の部分は、違う言葉で言うなら義務の部分であり、今回はその義務を果たすことに力を入れた。
一方で、僕の趣味の部分については、達成感よりも未熟な自分に対する不満が多く残った。義務を果たすのに、今回は精一杯だった。
それらは、次回の課題としよう。
|
|
2011.3.13〜14(日〜月) 子供の頃

NikonD700 Carl Zeiss Distagon T* 2.8/25mm ZF SILKYPIX

NikonD700 Carl Zeiss Distagon T* 2.8/25mm ZF SILKYPIX
 NikonD700 Ai AF-S Nikkor ED 300mm F4D(IF)SILKYPIX
子供の頃、学校に行くのを辛いと思ったことは、多分一度もない。仲間と遊ぶのが楽しかったし、学校が終わってからも、そのままの流れで、ほぼ毎日、友達と遊んだ。
だが授業に関して言えば、当時の僕は、授業中にただ椅子に座っておくことがまさにギリギリのことだったから、本当に辛かった。
休み時間が待ち遠しくてたまらなかった。
そんな中で、図工の時間だけはまだましな方だったので、将来は美術の学校に行きたかったけれど、武田家では到底許されることではなかった。
言うならば、そんなものは自分ですべきことであり、学校にまで行って人に教わるような大層なことではない、と言ったところだろうか。
今でも、自然写真が仕事というのは、後ろめたい感じがする。「そんなの所詮遊びじゃねぇか!」という声が聞こえてくるような気がしてしまう。
僕は怠け者だけど、写真を撮ることに関しては意外にハードトレーニング支持論者で、そこには、辛い目に合うことで、そうした後ろめたさから逃れそうとする心理が働いている可能性がある。
子供向けの本で、『学習物』と呼ばれる実用の本を作ってみると、その学習に関する部分の作業に面白みがなく、しんどかったけれど、しんどい分、働いている!という実感があって気は楽だった。
逆に、写真の本の中でも、「写真集を作ってみたいなぁ」という強烈な衝動にしばしば駆られる反面、「そんなの美術書みたいなもので、所詮道楽じゃねぇか!」という気持ちが、いつもそれをかき消す。
写真集を否定したいわけではない。僕はたくさんの写真集を持っているし、それらは頬ずりしたいくらいに大切にしているが、自分が見るのと作るのとは全く別のことで、僕にとって写真を目指すのは何だか後ろめたいことなのだ。
僕はアーティストではないなぁと思う。
また、自分の写真が人を癒して何らかの力になる、などとは思えない。自然写真家として、自分に今何ができるか?などという考えにも、どうしても至れない。
仮に、困っている人たちに対して僕が何かをするならば、自然写真はどこか棚の上にあげておきたい気持ちが強い。近くなら現場に行って労働をするか、遠くならお金を寄付するのか・・・。
武田家には大変に現実的なところがあるが、子供の頃、自分を取り巻いていた空気というものは、簡単には変えられないものだなぁと思う。
|
|
2011.3.10〜12(木〜土) 消えない水たまり(偕成社)
釣り竿をカメラに置き換えた結果、今の僕がある。僕が、子供の頃に魚釣りにのめり込むきっかけになった出来事については、偕成社のホームページ中の本の紹介のところに書いた。
http://www.kaiseisha.co.jp/newbook/new166.html
その釣りの先生から、手紙をもらったことがあった。いつも先生に連れられていた僕が、初めて一人で釣りに行くことになった時に、釣りの心得が書かれた手紙だった。
手紙の中の、
「知っているのと理解しているのとは、全く違います。」
という一文からは、大きな影響を受けたように思う。知識は大切だけど、それだけで魚が釣れるものではない。
津波が発生するしくみは、勉強をすれば知ることができるが、実際の津波を映像を目にすると、明らかに僕の理解を超えていて、ただただ驚くしかない。
自然について知ることはできても、理解することにはほど遠い。

水と地球の研究ノートC 消えない水たまり(偕成社)
水と地球の研究ノート(全五巻・偕成社)の第四巻が先日届いた。
このシリーズの制作の際に、実現できたこともあれば、できなかったこともある。
例えば、「自然を知ることはできても、理解するのは難しい」というその思いを本の中に書き込むことはできなかった。
正確に書けば、できなかったのではなくて、あえて外した。今回の本は、一方で僕が見ている自然を綴ったものではあるが、一方で学習ものという形態を取っているので、内容を明快にするべきだという判断だったし、それは正解だったと思う。
もしも、それを書こうと思うのなら、違ったコンセプトの本を1から企画しなおす必要があり、それは次の目標になった。
|
|
2011.3.8〜9(火〜水) 見直し

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX
実験をする時には、準備に1/3、実験そのものに1/3、結果の解析など実験後に1/3の時間を使え、と生物学の学生時代に教わったものだ。
スタジオ写真にも、それがよく当てはまるように思う。
スタジオ写真と実験とは極めて良く似ており、大変に論理的な世界だから、もしも基礎からきちんと勉強するつもりがないのなら、スタジオ写真は最初から止めておいた方がいい。よほどに特殊な才能の持ち主以外は、基礎の勉強なしでは、どんなに数をこなしても、ど素人の域さえ出ることはないだろう。
基礎とは、1つの照明器具の使いこなしだ。最初は1つのライト+レフ板の組み合わせで練習をするのがいいだろう。
そんなことを書いている僕も、何を隠そう、素人の域を抜けていない。そこで、ここ数年打ち込んでいた本作りが終わり気持ちにゆとりができたタイミングで、技術を根本的に見直すことにした。
週に一度くらいのペースで、いろいろな実験器具の写真を撮る。まずは、温度計を撮影してみた。

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX
文字の十の位のあたりに、照明器具の反射が写り込んでしまった。

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX
そこで、左からの照明を消して、上からの照明を強くすると、問題は解決する。
だが、上からの照明を強くすると、縦長の物を撮影する場合には上が明るく下が暗くなるなど違った問題がおきるから、今度は下からの照明が欲しくなる。
となると、上からも下からも照明しやすいように、温度計を固定しておく必要がある。
その段階になって、温度計をどう固定すべきか、つまり準備が写真の出来栄えを大きく左右することに気付かされる。準備の段階で、照明の自由度が高いやり方をしていれば先へと進めるし、最初のやり方がまずいと手詰まりになり、1からやり直しになる。
また、レンズの位置が悪くて、文字やめもりが、特に上の方がひずんでしまっている。レンズをもうちょっと上げるべきだった。
ただし、カメラの位置を変えても、おそらくどこかにひずみが残るだろうから、この撮影には105ミリのマクロレンズではなく、より遠くから撮影できる200ミリマクロを使うべきだった。遠くに離れれば離れるほど、もののひずみは小さくなる。
もっとも、200ミリのマクロは、以前持っていたものの、今は手放してしまい持ってないし、買い直そうにも高価で、簡単には手を出すことができない。
実験器具の撮影の依頼はたまに寄せられるから、温度計の写真も、いつか、どこかで使われるだろうと思う。
そしたら練習が仕事になるし、そうなるように、実際に使用されている温度計の写真を見て、温度計が何度を指していればいいのかなどは、あらかじめ調べておいた。区切りのいい温度だけでなく、中途半端な温度をしめしている画像も必要だとわかった。
ともあれ、その緊張感がなければ、なかなか練習にならないのだ。
ただ練習すればいいのではなく、練習の仕方が大切。
|
|
2011.3.7(月) 撤収
写真展の片付けに行ってきた。
恒例の3人での写真展だが、一緒に展示をした野鳥写真の野村芳宏さんとトンボ写真の西本晋也さんと、次の写真展の展示作品に関する打ち合わせをしてから解散。
一口に自然写真といっても、自然がメインの場合と写真がメインの場合とがあるが、野村さんも西本さんも、そして僕も、基本的に自然がメインの写真を撮っている。
言うならば、大きく分類してしまうと、僕らの写真は図鑑や自然のガイドだと言える。または、自然を説明していると言ってもいい。
3人の中では、野村さんは特に図鑑的な写真を好まれる傾向が強い。野村さんの写真は、そのまま野鳥のガイドブックにでも掲載できそうなものばかりだ。
西本さんは、話を聞いてみると多分に写真でいろいろと遊んでいる節もあるのだが、トンボが被写体の場合は人格が変わると言うか、真面目人間になるというのか、遊びを封印し、ひたすらにトンボマニアの世界に精進しておられるようだ。
ともあれ、そうした写真は、自然ファンにとっては良くても、生き物に興味がない写真ファンにとっては、大して面白い写真展ではない可能性が高い。
そこで次回は、写真メインの展示を目指してみることにした。
|
|
2011.3.4〜6(金〜日) ミニ田んぼ
。 OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U
プラ船と呼ばれるプラスチックの容器の中に、田んぼを再現するための準備に入った。本物の田んぼでは撮影できないシーンを、そのミニ田んぼを使って撮影する予定だ。
厳密に言えば本物の田んぼで撮影できないことはないだろうけど、生き物を探して歩いたり、長時間カメラを構えて這いつくばったり踏ん張ると、畦が傷んでしまったりしてしまう。自由に写真を撮っていいですよ、と許してくださる農家の方もおられるが、やっぱり心苦しいのでミニ田んぼを作ることにした。
ただ、そのミニ田んぼを置きたい場所には金魚の飼育容器が置いてあるから、まずは金魚を別の場所に移す必要がある。
そしてさらに金魚を移すその先にも別の容器が置いてあるから、玉突き式にそれらの容器も動かすことになり、動かさなければならない水の総量は1トンを超える。作業が簡単ではないことは分かっていたのだが、やってみるとやはり一日がかりになった。

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U
まずは、単管パイプを組んで、狭い場所にたくさんの飼育容器を置くための2段式の棚を作成する。
ところが、その単管パイプを買うのに、随分手間取る。近所で購入できるパイプは長さがメートル単位だが、僕が欲しいのは50センチと250センチ。最初に行ってみたお店で、
「切ってもらえますか?」
と聞いてみたところ、
「切れません。」
とのこと。2件目も同様で、とても切ってもらえそうな雰囲気ではない。
ならば単管パイプと一緒に、まずはパイプを切る工具を揃えるか?
だが専用のカッターは目玉が飛び出るくらいに高価だし、高速グラインダーでも2万円くらいは覚悟する必要がありそうだ。お金がたくさんあるのなら迷わず工具を買うところだが、わずかなお金をそんなことには使いたくないから迷う。
ところが、ほぼあきらめていた3件目のお店(GooDay)で尋ねてみると、
「切れますよ。」
と返ってきた。GooDayというお店は九州北部を中心に展開しているお店で建材関係には強くて元々好きなお店だが、家からでは少し遠い。
だが、今回のことで、益々ファンになってしまった。

OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U
 OLYMPUS PEN Lite E-PL1s M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 U
さて、水を入れると容器1つが180キロになるものを合計4つ乗せることになるから、がっちりと、しかも水を入れた容器を乗せるのだから水平を出す必要があるが、この場所は足場がデコボコしており、設置にはこれまた随分手間取った。
パイプをネジで固定しては水準器で傾き具合を調べ、またネジを緩めてパイプを固定し直すことを何度も何度も繰り返す。
やがてネジを締めるための電動工具の電池がなくなってしまい充電を試みるが、電池が古くなっていてなかなか充電ができなくて、じれったい。
新しい電池買うか?
いや、滅多に使わない工具だからなぁ・・・
結局、予定の半分以下の作業しか終わることができなかった。
それにしても、僕の見通しの何と甘いことか。一日で終わるはずの作業が、実際にやってみると、おそらく丸3日は要するだろう。
【お知らせ】
写真展のお知らせ
● 北九州市門司の白野江植物公園市民ギャラー
● 2月23日(水)〜3月6日(日) 火曜日が休園日 9:00〜17:00。
駐車料300円 入園料200円。
|
|
2011.3.3(木) 博物学

時々、
「学生時代に生物学を専攻すれば良かった。」
という方に出会う。多くは、文化系に進んだ人で、大人になってから自然観察の面白さに気付いてしまった人たちだ。
だがもしもその人が本当に生物学を専攻していたなら、こんなはずじゃなかった、と感じる確率が高い。多くの人が生物学だと思い込んでいるのは、実は博物学である場合が多い。
文化系の人たちが大学の教養部などで勉強した生物学なども、生物学というよりは、博物学に近いケースが多いのではなかろうか。
博物学という言葉は死語になりかかっている節があるが、決して衰退したわけではなくて、現代の博物学は自然写真である。
自然写真といっても多岐にわたるので、なかでも、自然科学写真と呼ばれる場合もある。
その自然科学写真という言葉は、分かるようで分からない。
例えば、写真雑誌のフォトコンテストに書かれた選者の選評を読んでみる。
「この写真は生き物の貴重なシーンを捉えている写真ではありますが、絵になってないから絵作りを工夫しましょう。」
と書かれている。その時に、
「これでは自然科学写真になってしまうので、もっと絵作りを工夫しましょう。」
と言う風に、自然科学写真という言葉が使われるのを、僕は見たことがない。多分、写真界にいる人たちにとっても、自然科学写真という言葉がピンとこないのだと思う。
「これでは生態写真になってしまうので、もっと絵作りを工夫しましょう。」
というように、生態写真という言葉なら、時々使われているのを見たことがあるが、それもどうもピンとこない。
ともあれ、生き物の図鑑などは、大きな書店に行けば生物学のコーナーに並んでいる場合が多い。博物学という言葉が死語になりかかっているのだから仕方がないが、生物図鑑はコテコテの博物学であり、生物学と言われると僕はなんだか気持ちが悪い。
さて、博物学には収集癖が不可欠だが、僕には、その収集癖があまりない。だから、自然関係の本の中でも、特に図鑑のような本を作るのには向いていないと言える。
そこで、博物学ではなくて、物語性を重視して写真を撮るようになった。そして、地球と水の研究ノートの全五巻(偕成社)ができた。
本の中にタケシンというキャラクターが登場するが、別に僕が主人公の本ではない。
本の主人公はあくまでも自然であり、タケシンは、その自然について楽しく伝える手段として登場するに過ぎない。
そうした本の見え方を決める役割を担当したのが、ボコヤマクリタさん。本の中での肩書は、構成・イラスト担当だ。
【お知らせ】
写真展のお知らせ
● 北九州市門司の白野江植物公園市民ギャラー
● 2月23日(水)〜3月6日(日) 火曜日が休園日 9:00〜17:00。
駐車料300円 入園料200円。
|
|
2011.3.2(水) 僕にできること
ある薬を飲んだら病気が治ったとしても、それだけで、それがその薬の効果だとは言いきれないのは、学生時代の実験の際に一番最初に教わったこと。
病気は自然治癒することもある。だから、ちょうどその薬を飲んだタイミングで、偶然病気が自然治癒をした可能性だってあるからだ。
では、どうしたら薬の効果を確かめることができるのか?
対照実験などという言葉を教わる。その方法は、実験のイロハの本でも読んでもらうとして、日常生活でも同じような事例はたくさんある。
例えば、おいしいとは感じない食べ物でも毎日毎日食べ続けたら、ある日おいしいと感じるようになった。
当人は、好きじゃない物でも食べ続ければ好きになると信じ込んでしまう。紛れもなく自分が経験をしたのだから、間違いないと固く信じる。
だが、人の味覚は元々変化するものであり、子供の頃、一口食べてきらいだと感じたものを、大人になって久々に食べてみたらおいしいと感じることなど別に珍しくもない。
だから、好きではなかった食べ物を好きになったとしても、それはたまたまそんなタイミングにさしかかっただけであり、別に努力をして食べ続けたからではない可能性だって大いにある。
努力は大切なことではあるし、誰しも努力によって物事が解決して欲しいと望むが、努力とは無関係に決まってしまう運命だって、たくさんある。
何かに一生懸命取り組めば取り組むほど、僕は、そんな風に感じる機会が増える。
報われない、と嘆いているわけではない。
ああ、そうなんだ、と受け入れるのみだが、自分はこうなりたいという写真家のイメージが僕の心の中にはあるが、必ずしもそうなれるわけではないのだろうなぁ。
その中で、すねずに、投げやりにならずに馬鹿正直に、当面次の本作りに全力で取り組もうかな。
さて、何をしようか。僕にできることって、何だろう?
【お知らせ】
写真展のお知らせ
● 北九州市門司の白野江植物公園市民ギャラー
● 2月23日(水)〜3月6日(日) 火曜日が休園日 9:00〜17:00。
駐車料300円 入園料200円。
|
|
2011.3.1(火) 更新
今月の水辺を更新しました。
【お知らせ】
写真展のお知らせ
● 北九州市門司の白野江植物公園市民ギャラー
● 2月23日(水)〜3月6日(日) 火曜日が休園日 9:00〜17:00。
駐車料300円 入園料200円。
|
|
先月の日記へ≫
|