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2010.10.30(土) 何を撮っているのですか?

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX
岩の下から湧きでてくる、写真にはほとんど写らないくらいの微量の水を、なんとかして写そうと試行錯誤。
散歩で付近を通りかかる人たちに、時々、
「何を撮ってるのですか?」
と聞かれるのだが、仮に説明を試みても、そんなものを撮影して何が楽しいのか、まず理解されることはないだろうし、ますます相手を疑問にさせてしまうに違いない。
「生き物の写真を。」
などと適当に嘘をついておこうか?とも思ったのだが、
「えっ、なになに。」
などと見に来られては困るので、結局、
「ええ、まあ、ちょっと。」
などとお茶を濁したような返事をすることになった。
人に理解されないせつなさと、人に理解されない快感がまぜこぜになって込み上げてきた。
理解されるようでも困るし、理解されないようでも困るのである。
【 お知らせ-1 】
写真教室の先生をつとめます。
詳しくは、山田緑地のホームページ
http://yamada-park.com/
から、NEWS/イベント情報一覧の
山田緑地のカメラ教室(初心者向け)
をご覧ください。
【 お知らせ-2 】
恒例の写真展 (野村芳宏・西本晋也・武田晋一) のお知らせです。
場所 http://yamada-park.com/
10月30日(土)〜11月28日(日)。
休園日は毎週火曜日。
入場は無料だが駐車場が300円。
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2010.10.28〜29(木〜金) 雲の切れ目
遠出をして、たった1枚の写真を撮って帰ったところで、コスト的に見合わないことが多いので、他にも幾つかの被写体をリストアップた上で、三泊四日とか、四泊五日くらいの日程を組む。
以前はそんなスタイルで取材に出かけることが多かった。
だが忙しい時は、目先の一枚の写真を撮ることに精いっぱい。コストとか効率などということを配慮するだけのゆとりがない。
そこで、前日の夜遅く福岡をたち、翌日は熊本でたった一枚の写真を撮って帰る。帰宅をしたら今度はまた夜の間に島根まで移動し、翌日は島根で写真を撮ってまた帰る。
今年の春〜夏にかけては、そんな感じの、効率が悪い撮影がたいへんに多かった。
一方で、悪いことばかりではないことも分かった。
三泊四日とか四泊五日なら、大抵外れの天気の日ができてしまうのに対して、前の晩に出て翌日撮影して帰る場合、前日の晩の天気予報を見て翌日の計画を立てれば、狙ったその一日の撮影に関しては、むしろ外れが少なく効率がいい。
例えるなら、エベレストに登るときに、たくさんの荷物を準備してじっくり山頂にアタックするやり方もあれば、軽装にして、さっと登ってさっと引き揚げてしまうやり方もあるのに似てなくはない。
ただ、さっと行ってさっと撮って帰るつもりの日に、前日までの天気予報が大きく外れてしまうと、これほど無駄な撮影はない。
 NikonD700 AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX

NikonD3X Carl Zeiss Distagon T*2.8/21ZF.2 SILKYPIX
さて、岩の撮影に出かけた。
前日の夜の段階での天気予報は晴れ。だが当日の朝、目を覚ましてみれば、うろこ雲が広がっていた。
この雲が出た時には、天気が崩れるんじゃなかったけ?とさっそく早朝の天気予報を見てみたら、悪い。ならば、青空が出ている間に撮影を終えてしまいたい。
結局、無情にも、目的の岩にお日様の光があたり始める直前で、空は雲で覆われてしまった。
本当はもう一泊して様子をみたいところだが、夜に予定が入っているので、とにかく帰らなければならなかった。
また、出直しだ。

NikonD700 AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX
翌日、つまり今日は、写真展の準備がある。
朝、出がけに空を見上げてみると、うちの事務所のちょうど真上のあたりが、曇りと晴れの境目だった。
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2010.10.27(水) 洞窟の入り口にて

NikonD3X Carl Zeiss Distagon T*2.8/21ZF.2 SILKYPIX

NikonD3X Carl Zeiss Distagon T*2.8/21ZF.2 SILKYPIX
洞窟の入り口の撮影は、簡単そうで、実はとても難しい。
その原因は、大きな明暗差。
明暗差が大きな被写体の撮影は難しい。
曇った日なら多少明暗差が和らぐが、暗い場所は、明るい場所があってより一層魅力的になるのであり、この手の被写体は、撮影が難しくても晴れた日に撮影したい。
ただ、洞窟の本作りに取り組んだ結果、明暗差が大きな被写体の撮影に関しては、それなりに自信が持てるようになった。

NikonD700 Carl Zeiss Distagon T*2.8/21ZF.2 SILKYPIX
ヤスデの撮影は難しかった。
今日はついに、納得ができる写真が撮れなかった。
本の中で使用するには十分な写真だと思う。が、この写真をどこで使用するとか、どれくらいの大きさで使用するとか誰に見せるとかそんなことを一切抜きに、この生き物の魅力が最低限でも引き出されているか?と考えてみれば、全く納得ができない。
機材に何らかの工夫が必要であることがわかった。
まっ暗な洞窟内での撮影。したがって人工の光のもとで撮影をすることになるが、ヤスデの場合、ピントを合わせるために懐中電灯の光をあてると動きだしてしまうので、カメラや撮影用の照明器具を固定することができないのだ。
動かなければなぁ。動かなければ、三脚に照明器具を固定して、理想の位置に設置することができるし、どこがその理想の位置なのかをじっくり探ることができる。
がしかし、現実には動くものだから、右手にはカメラ、左手はグイと精一杯伸ばしてに照明というスタイルになり、さらに足元はヌルヌル滑るし、あたりは真っ暗だしでゆとりがなく、照明器具の光の質をコントロールすることができなかった。
今回は、準備不足。
何か考えよう。
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2010.10.26(火) デジタルの時代

PENTAX645N A645マクロ 120mmF4 フィルムよりスキャン
スキャナーでフィルムをデジタル化する作業と言えば、とにかく煩わしい。
以前はそんなイメージだったのに、久しぶりにそれをやってみたら、煩わしくも、それなりに充実感があり、面白かった。
心境の変化の理由は、デジタルの時代になったからだろう。
今やデジタルカメラ用の優れた画像処理ソフトがたくさん登場し、それらの機能を上手に活用すれば、フィルムからスキャンした画像についても、以前よりも高品位なデジタル画像に仕上げることができる。
また、僕自身の画像処理の技術の向上もあるだろう。
以前は、フィルムをスキャンしてデジタル化しても、どこかフィルムとは違う絵になってしまう感があったのに、今回はそれをほとんど感じなかった。
ただやっぱり、高品位なデータを作るには、時間がかかる。
特に、明暗を駆使して撮影された画像は扱いが難しく、あっとう言う間に、10分とか20分の時間が経過してしまう。
けれども、丁寧にやらなければ、この手の作業は面白くないのであり、時間がかかることを言い出してはならない。
この機会に、自分にとって重要なフィルムだけはデジタル化しようか!一日一枚、じっくりじっくり、丁寧なデータを作成するのなら、楽しいのではなかろうか。
中判のフィルムで撮影された写真は眺めていたら、中判のデジタルカメラが欲しくなってしまった。ペンタックスの645D。
でも、今の僕には必要ないか・・・
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2010.10.21〜25(木〜月) 妄想と想像の境目
前回の更新の際の画像は、兵庫県の玄武洞という場所。中学の理科で勉強した玄武岩が見られるから玄武洞だと思っていたら、実際にはその逆で、玄武洞で見られる岩ということで、玄武岩と名付けられたようだ。
ともあれ、以前から行ってみたいと思っていた場所。理想を言えば、5〜6月の緑が鮮烈な時期に行くことができれば、緑と岩との対比で、この不思議な地形がより一層神秘的に写るのではないかと思うが、なかなか時間を作ることができなかったのだ。
主に生き物にカメラを向けている僕が、なぜ岩の写真なのか?と言えば、今後の僕の方向性とも関係がある。
僕は、自然を細かく細かく、よりマニアックな方向に見るよりも、大きく見たい。
たとえば、ある場所に潜って魚の写真を撮ったとする。
するとその次は、その魚をよく詳しく見るよりも、その水辺がどうやってできたかの方に興味がある。
僕がよく写真を撮るある水辺などは、火山の噴火の結果できた湧水の泉だった。ならば、火山の写真を撮りに行ってみたい。
そして火山の写真を撮ってみると、今度は、噴火の結果できた岩石に興味が湧いてくる。
岩には幾つかの種類があり、熱い溶岩が冷えて固まった結果できた岩を火成岩というが、その中に玄武岩が含まれている。
溶岩が冷えて固まる際に、あの不思議な模様ができる。
目を閉じて、その様子を想像してみると、確かに、あの形になる。
いや、なるような気がしてくる。
僕は写真を撮る際に、基本的に、自分の妄想の部分は除外をして入らないようにする。だから、特殊なレンズなどを使用した特殊な表現をあまり用いないのだが、想像の部分に関しては、大変に重視しており、その想像こそが、僕が表したいものでもある。
もっとも、僕の想像などはあてにならないもので、間違えた知識をもとに間違えた想像をしていることがよくある。そして、人間の想像とは恐ろしいもので、その間違えた想像を、大変に理にかなっているとまじめに思い込んでしまうことだ。
そう言えば、昔ある女性が、
「あのコンビニの店員さんは、私に間違いなく気があるし、私もあの人を気にいっている。」
と力説していたのだが、実際に告白してみると、相手はその方ことを知らなかった。
まさに、思い込みだったわけだが、僕の自然に関する想像も、しばしば、そんなレベルであり、想像と妄想の境目をうろうろしてしまうのだった。
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2010.10.19〜20(火〜水) 玄武岩を見に

NikonD3X Carl Zeiss Distagon T*2.8/21ZF.2 SILKYPIX

NikonD3X AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX

NikonD3X AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX
まさか、岩を眺めている最中に、熊が出てきたりはしないだろうなぁ。ツキノワグマが建物の中にまで入ってきたなどというニュースがあまりにも多く、疑心暗鬼になる。
さて、同じ種類の生き物の中にも個体差があり、より環境に適したものが生き残りそして子孫を残すことを繰り返しているうちに進化が起きた、という考え方がある。
例えば、より首が長かった者が高い場所にある食べ物を食べることができて有利だったから生き残り、それを繰り返すうちにキリンのような生き物になったのだと。
一方で、それに異を唱える日本の研究者の考え方がある。
同じ種類の生き物であるということは、基本的に同じ能力を持っているのであり、どれが有利などというのはおかしいと。同種であるということは、みな同じなのだから、ある一匹の首が長くなるときには、みんなに同じことがおきるということであり、みないっせいに首が長くなるのだと。
それを支持するような遺伝学上の発見もあった。
生き物の遺伝子には、体の構造やその生き物の暮らしには影響を与えないような小さな突然変異がたくさんおきており、それが、生き物が繁殖をする際に仲間の間で静かに広がり、また蓄積していくのだそうだ。
つまり、僕ら人間の間でも、まだ表に出てこない遺伝が、ひそかにみんなの間に広まっているのだという。
そして、そうした小さな突然変異が積み重なり、あるとき一斉に、生き物の形や性質に変化が生じるのではないか?という考えがあるのだ。
そうした遺伝子の話はさておき、各地で同じようなクマのトラブルが一斉におきていることは、非常に興味深い。
そういえば、メジャーリークに行った松坂大輔投手が、同じコンディションの日はもう二度とないし、体はどんどん変わっていくと語るのを聞いたことがあるが、昨日の自分と今日の自分があまり違わないように思えても、実際には、確実に老化しているのと同じように、生き物や自然は同じことを繰り返しているようで、実は少しずつ変化しているのであり、今と同じ状態は、地球の歴史上、もう二度とない。
当然、ツキノワグマの暮らしぶりも少しずつ変化するのだろうが、その変化が、ある一匹に特異的に起きるのではなく、みなに一斉に同時発生的に起きるのだとしたら、生き物の進化の仕組みを考える上で、非常に興味深い。

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX
兵庫県の昆陽池で撮影できなかったヌートリアだが、今日、何とか撮影できた。
兵庫から広島にかけて、点々と痕跡はみつかるものの、パッといってすぐに撮影できるような状況がなかなか見つからず、さすがにあせった。
明日は雨の予報。
本来思い描いていた、いかにも公園とか、いかにも町の中のヌートリアの絵とはかなり違うが、まあ、良しとしようか。
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2010.10.18(月) 関西へ
兵庫県の宝塚のインターチェンジで高速道路を降りてしばらくすると、昆陽池がある。九州からの距離の関係で、冬に北日本へ出かける途中で時々立ち寄る場所だが、水鳥に与える餌を食べに、ヌートリアという南米原産の動物がやってくるのをいつも見かける。
その餌場にやってくるヌートリアの写真が欲しくなったので、以前撮影したものを探してみると、あまりいいものがない。
そこで、写真を撮り直すために、昆陽池に行ってみたのだが、ヌートリアの姿はなかった。
池の周りを散策してみると足跡はたくさんあるので、冬と違って餌が豊富なこの時期は、水鳥の餌を食べにきたりはしないのかもしれない。
見かけたときにちゃんと撮っておけばいいのだろうが、昆陽池は動物園っぽくて、雰囲気あまり好きではなくて、いつも集中力を欠いてしまう。
撮影をちょっと早めに切り上げて、同じ敷地の中にある昆虫館で虫を眺めている方が楽しい。特に、生きた虫の展示は、非常に面白い。
虫そのものも面白いが、餌をどうしているかとか、湿度をどのように与えているかなどといった、飼育のテクニックがまた面白い。

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX
水鳥の餌を食べにきたのはカラスたち。まだ若い顔つきのものが多かった。

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX
池のまわりのベンチでは、おばあちゃんが、キャッキャ言いながら鳩に餌を与える。日本昔話に出てくるおばあちゃんのモデルは、関西のお年寄りではないことは確かだろう。
男性は、一転して控えめな方が多いように思う。
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2010.10.16〜17(土〜日) 取材
数日、取材に出かけることになった。
ここのところ、取材に出かけると言えば、洞窟だったり、池の中だったり、四駆の軽自動車でなければ登れない場所だったり、吸血昆虫がやたらに多い場所だったり、泥だらけになってしまう場所だったり、と簡単ではない場所が多かった。
いつの間にか取材と言えば、それなりの覚悟をして出かける大イベントというイメージがこびり付き、身構えてしまう。
今回は一転して、車の運転が長いくらいで、その手の苦労はないにもかかわらず、肩の力が抜けないというのか、難しい気分になってしまう。
自然写真のような仕事は、長く続けてなんぼなので、いつもいつも身構えなければならないようでは困る。
苦しいのと穏やかなのとの塩梅を整え、偏り過ぎないようにする必要がある。
苦しいばかりでも、穏やかなばかりでも長続きしなくなってしまう。
取材に出かける準備をしながら、最近の自分の、ちょっと偏り過ぎた状況に気付かされた。
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2010.10.15(金) 専門家
今制作中の本の、火山に関する説明のところで、
「地上に噴出したマグマは・・・」
と書いたところ、地質学の専門家が、
「マグマは地下にある状態のものを指す言葉で、地上に噴出したものは溶岩になります。」
と指摘をしてくださった。つまり、地上に噴出したマグマなどというのは、存在しないことになる。
そういうところが、実は非常に難しい。マグマなどという言葉は大概の人が知っている普及した言葉だが、正確な言葉の定義を知っている人は少ないのではなかろうか。
そこのところに、専門教育を受けた人と、そうでない者との違いが滲み出てしまう。
専門家って、カッコいいな。
そう言えば生物学の学生時代に胞子という言葉について、
「正確な言葉の定義を知っている人は、実は大変に少ないのです。」
と植物学のA先生が力説しておられたのを思い出した。
つまり、自然科学の本を作るということは、下手をすると、一語一語、すべて点検しなければならない側面がある。
僕は、作りかけの本を、何度も何度も読み直す。
どこかに誤りがないだろうか?疑いの目で。
すると、50回目を通すと1度くらいの割合で、
「あっ、ここマズイ。」
といった箇所が浮き彫りになる。
それは、校正というよりは発見であり、一種閃きを要し、非常に疲れる。
また、それをするには、そこそこ暇でなければならない。あまり写真を撮ることに集中すると、そこまで神経が届かなくなってしまう。
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2010.10.14(木) 文学と自然写真(後)
理科系の人間は、良くも悪くも、技術とかテクノロジーに惹かれがちだ。ある景色を見て、その写真を撮る時にこんな詩が思い浮かんできた、というような文学的な話よりも、ある一枚の写真を撮るために機材にこんな工夫を施した、という話に触発されやすい。
僕も、典型的にそうであり、基本的に、技術屋タイプの人間だ。
ちょっと前に、昆虫写真の新開さんの日記の中に、撮影機材に関する記事があったが、そうしたものを見ると、つい興奮してしまうのであった。
すでにあれだけの写真を撮っておられる方が、いまだに自分のやり方に改良を加えておられるのだから刺激を受けない方が嘘だと思うのだが、文学的な切り口の写真を撮る方の中には、その手の話には全く興味を示さない方もおられる。

普通、撮影機材を三脚に固定する場合には、カメラの底の部分にあるねじ穴を利用する。
ところが、中にはレンズに三脚座と呼ばれる部分があって、そこにも三脚を取り付けられるようになっているものもある。
そしてそのレンズの三脚座は、三脚に固定する時以外にも、アイディア次第でいろいろと使うことができるのでありがたい。僕はそれを、照明器具を支えるための足場に用いている。三脚座から伸縮可能な棒を伸ばし、その先に、照明器具の発光部を取り付けるのだ。
一般に、三脚座を備えているレンズには、図体の大きなものが多い。大きくて重たいレンズの場合、レンズの方を三脚に取り付けた方が、カメラを取り付けるよりも安定性がいいからだ。
ところが、キヤノンの接写用のレンズに関して言えば、大して大きいわけではないのに三脚座が準備されている。小さな100ミリ以下のレンズに三脚座を準備しているのは、現在キヤノンだけだと思うが、いったいなぜ、そんな発想になったのだろうか?
設計者は、はたして僕のような使い方まで考えているのだろうか?
心のどこかでほんの少しくらいは、何かに使える可能性がある、と密かに考えたのではなかろうか?
僕はそんな気がする。
ともあれ、情緒をあまり理解できない僕は、詩人と合うよりも、たとえばそんなレンズを設計した技術者の人と会ってみたい気持ちが強い。
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2010.10.14(水) 文学と自然写真(前)
ちょっと訳あって、昨日は、三好達治の「甃のうへ」、それから中原中也の「一つのメルヘン」を、高校生と一緒に勉強することになった。
いずれも多くの人に愛されている非常に有名な詩だが、僕には、何がそんなにいいのか全く理解できないのだから話にならない。一方で、若いころにすでにそれらの詩に衝撃を受け、傾倒していく方もおられるのだから、それを感じることができるかどうかは、才能の有無と言い換えてもいいのではなかろうか。
あるいは、教育の影響もあるやもしれないな、と思う。武田家では、物事は分かりやすく、直接的にはっきり伝えることを良しとされたし、何かを伝えなければならない時に詩のような表現を用いたなら、父の虫の居所が悪ければ、
「ふざけるな。」
げんこつをされてしまったに違いない。
僕のように理科系に進むと、さらにそうした面を鍛えられることになる。
「いやいや、自然科学の優れた研究者の中には、芸術を愛する人が多いじゃないですか!」
と指摘をしたくなる方もおられるだろう。
が、僕の知りうる範囲では、優れた研究者であればあるほど、たとえ芸術好きの人であってもきちんと一線が引かれており、自然科学の中にあいまいな表現を持ち込むこともない。むしろ、論理性を追求することに、ただひたすらに厳しかった記憶がある。
文章に、論説文のようなものと文学的なものがあるように、自然写真にも、自然現象について伝えようとする論説文的な切り口のものと、自分の内面を表そうとする文学的な切り口のものとが存在するが、僕の場合、文学的な切り口の写真について言えば、ほとんど理解ができない。
そう言えば以前、ある方から、
「武田さんは、こんな文章ばかり書いてたらつまらないですよ。例えばね、ここで、中原中也の・・・・。」
とある詩の中に出てくる表現を引き合いに出して言われたことがある。
「そうした表現を良しとしない武田さんは、芸術をバカにしている。」
とも言われたのだが、バカにする以前に、僕には理解ができないだけなのだ。むしろ人と一緒に組んで本を作るのなら、文学的な表現の味わいを理解できる人と組みたい気持ちが強い。
生き物の生態にカメラを向ける人には、僕と同じようなタイプの人が多いように思う。
そして中には、文学的な切り口の写真を、
「情緒だけの、中身がからっぽの自己満足の写真。」
と批判する方がおられるが、それはおそらく、その人に文学を理解する才能がないだけだと思う。僕と同じように。
もしも、文学的な切り口の写真を誰かに批判されたなら、その相手と中原中也について語り合ってみたらいいだろう。たぶんその誰かは、ほぼ100%、中原中也を理解できないだろう。
逆に、写真で詩を表すのなら、安っぽい技は禁物だ。植物に霧吹きで霧を吹きかけるなどというのは、まさに愚の骨頂。もしも中原中也がカメラを手にしたなら、そんな手法は絶対に使わないことくらいは僕にも分かるし、その手の写真を
「情緒だけの、中身がからっぽの自己満足の写真。」
というのなら、大賛成である。
ただし、
「いやいや、やらせをしてでも評価されたい自分の内面を、霧吹きを使ったいかさま写真によって表しているのだ。」
と言うのなら、それならちょっと見てみたい気もするが・・・。
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2010.10.12(火) 出会い
僕の場合、カメラを使って絵画を描くことには、ほとんど興味がない。だから、写真を額に入れて飾ろうという気持ちにはあまりならない。
僕が写真を通してやりたいことと言えば、それは自然について伝えること。
ただ、写真は視覚に訴える表現手法なので、絵画に興味がなくても、絵画性という部分はとても重視している。
「それが分からない。絵になる写真が撮りたいんじゃないの?」
とよく言われるが、例えるなら、別に文章を書くことが好きなわけではなく、ただ言いたいことがあるから文章を書いている人でも、作家なら誰しも作文の技術を磨こうとするのと同じことである。
さて、額に入れて飾る写真を撮るのと、本の中で素材として使用する写真を撮るのとでは、同じ写真撮影でもかなり違った行為になる。
本の中で使用する写真を撮る場合、同時進行で文章を書いておくことが理想的ではなかろうか。文を書いてみて初めて、
「ああ、ここは、こう撮っておくべきだった。」
と気がつくことが多い。
文章を書くことによって、次に何を撮るべきかが明確になる場合もある。だから時には、写真よりも文書が先にあるのだとも言える。
さらに、イラストが加わる本ならば、同時進行でイラストも書いておいた方がいい。
写真家は、写真絵本においてはイラストなどというものは単なる説明のための後付けの資料であり、内容さえ分かればそれで十分と考えがちだが、本を読む立場に立てば、写真もイラストも対等であり、イラストも写真と同じくらいにこだわったものであってほしい。
そして、そのイラストを描くためには、やはり、イラストにつける文章を同時進行で書いておいた方がいい。いや、先に文章がなければ、イラストが書けないのかもしれない。
すると、いったい何から始めていいのかが分からなくなる。写真なのか、文章なのか、イラストなのか、イラストにつける文章なのか・・・鶏が先か卵が先か的な悩みだ。
イラストは、誰にでも書けるわけではないし、さらに、自然現象を説明するようなイラストを書くには、幅広い知識や見識が必要であり、絵画バカには書くことはできまい。
加えて、まだ企画が通っていない、まったく先が見えない段階の本にイラストを付けてくれるというようなイラストレーターは、よほどに奇異な性格の持ち主か、よほどに計算ができない人に違いない。
結局は、何をするにしても、最後は出会いなのかな。
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2010.10.9〜11(土〜月) 物忘れ

CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM 2005年撮影
サルの写真が欲しいなぁ。高崎山にでも行くか・・・
などと思いを巡らせていたら、画像処理用のパソコンの中の、ニホンザルと書かれたフォルダーが偶然目にとまった。
はて、サルの写真なんてデジタルカメラでは撮った記憶がないが・・・。いったい何の写真が収まっているんだ?と開けてみたら、サルの写真があった。
悪い写真でもない。
そうか、そうか!数年前に山道で偶然出くわしたサルの群れを、ほんのわずかな時間だったけど、撮影できたんだっけ。
驚いたことに、自分で撮影しておきながら、完全に記憶の中から消え失せてしまった写真が、近頃ぽつりぽつりとある。
(撮影機材の話)
そのサルの写真を撮ったのが2005年の秋。
カメラは、キヤノンのEOS5Dだった。
型落ちの過去のカメラであり、今となってはそのスッペックには何1つ目を見張るものもないが、画質は全く古くないし、それどころか、低感度での絵の立体感など自然さに限って言えば、最近の大半のデジタルカメラよりもいい。
したがって最新のカメラで撮影された画像の中に混ぜても、違和感はないし、全体の調和を乱すようなこともない。
どうせシャッターを押すのなら、その写真の寿命は長い方がいいし、僕は、カメラは高画質なものを選びたい。
近頃は、デジタルカメラの画質と言えば、高感度での画質が重視されるが、高感度での画質を優先すれば、低感度での画質が犠牲になってしまう。
別に、高感度の画質が優れたカメラがあってもいいと思うのだが、デジタルカメラ登場以前には、フジのベルビアのような低感度のフィルムを好んで使った人がたくさんいたわけだから、低感度での画質にこだわったカメラが1種類くらいあってもいいのではなかろうか。
僕は、高感度でもそこそこ写るカメラよりも、低感度で本当によく写るカメラが欲しい。
2005年当時に画像処理したものを、今回再度やり直してみたら、画像処理ソフトがバージョンアップされた結果、少しではあるが、以前よりもいい絵が得られた。
写真は、特別な意図がない限り、RAWで撮っておくに限る。
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2010.10.7〜8(木〜金) 続・湯気
先日カタツムリの撮影中に、朝日を浴びた木の枝から湯気が湧いてでるのを見て、心を揺さぶられた。
その日の気温や湿度の具合や、逆光だったり、背景が暗かったりといった条件が重なり、普段は人の目に見えにくい空気中の水分が、目に見えたのだった。
僕は、生き物そのものよりも、生き物を取り巻く環境の方に興味がある。しかもその環境も、図鑑で取り上げられるような意味での環境、たとえば平地とか山地とか湿原とか清流といったオーソドックスな概念ではなくて、湿度だったり空気の流れだったりと、もっと漠然としたものだ。
ただ、そんな漠然としたものを発表できる場が、はたして日本の出版業界に存在するだろうか?
僕の過去の経験の範囲では、おそらく、まずない、と断言してもいいだろう。生き物関係の出版は、分かりやすく、明快でなければならないのだ。
だから、僕の好みはプロ向きではないし、センスが悪いと言える。
それだけに、これまでは自分の好みを封印し、ある程度の需要が見込める定番の写真を、基本に忠実に撮影してきた。
ところが、そうして定番のものを撮影しているうちに、それら定番写真の中に、自分がやりたいことを埋め込むことが可能ではないかと感じはじめた。
たとえば、カタツムリは子供の本の世界では人気があるが、そのカタツムリの本を作っているふりをしつつ、実は、木に含まれている水分や空気中の湿度について語る。
他にも、爽やかでキラキラした写真は人気があるし、そこそこの需要があるみたいだから、そんな爽やかな写真を撮っているふりをして、実は、空気の中の水分や一日の気温差について語るというのもありだろう。
明るくて爽やかな写真も、ちょっくら練習してみようか。
 NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX
 NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX
(撮影機材の話)
ズームレンズを持つと気軽に写真が撮れるが、結局いつも、最後には単焦点レンズにたどり着く。
また、200〜300ミリクラスの望遠レンズは遠くから撮影できるので便利だが、これもやっぱり、無駄に焦点距離が長くない100ミリクラスのレンズに落ち着く。
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2010.10.5〜6(火〜水) 湯気
先日のカタツムリの撮影中のこと。
朝一番のお日様がさっと挿しこむと、楠の大木の枝から、フワフワと湯気が上がった。
飼育中の生き物に家の中で逃げられると、その生き物は、大抵どこかで干からびて死んでしまうが、屋外では、別に水辺がなくても、土や植物の中にちゃんと湿り気があり、少々日照りが続いたって、生き物が干からびてしまうことはない。
ただ、その湿り気は、人の目には見えにくい。
水辺の写真家として、その見えにくくて、なかなか意識できない水分を、写真に撮ってみたい気持ちがある。
カタツムリそのものが撮りたい、というよりは、僕は、カタツムリを通して、たとえばそんな湿り気を表してみたい。

NikonD3X Ai AF-S Nikkor ED 300mm F4D(IF)SILKYPIX

NikonD3X Ai AF-S Nikkor ED 300mm F4D(IF)SILKYPIX

NikonD3X Ai AF-S Nikkor ED 300mm F4D(IF)SILKYPIX
朝露に濡れた草むらで、まだ死んで間もない、カマキリの死体を見つけた。
少しずつ動けなくなり、葉っぱにとまったまま、少しずつ死んでしまったようだ。

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX
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2010.10.3〜4(日〜月) お金
フリーの写真家のような仕事を選ぶのなら、一生のうちに何度かは、リスクをおかして勝負に出なければならないだろう。
まず、プロの写真家を目指すということが最初の勝負だ。
相手は、すでに自分の地位を確立している先輩方になるから大変だ。自分よりも技術があり、経験があり、お金があり、人脈がある。つまりほとんどすべての面で、自分を上回っている。
しかも、世の中に存在する仕事の総量は、生き物の写真の場合、思いのほか少ない。
写真を撮るという行為自体は勝負でも競争でもなんでもないが、生き物の写真を仕事にしようと思うのなら、それはまさに競争であり、勝負だと言える。
仮に、一定程度の自分の地位を築くことができたとしても、同じことばかりが何度も通用するはずもないから、今度は、自分を変えていかなければならない。
僕はこれまで、ある程度の需要が見込める定番の写真を中心に撮影してきたが、今度はそれを一切封印し、定番とは逆の、新しい世界を切り開くことに力を入れている。
定番ではないものにカメラを向けるのだから、当然のことながら、お金になりにくい。
逆に、新しいことにチャレンジするのは、何かとお金がかかる。
もちろん、そんなことは最初から分かり切っているから、それなりの体力をつけた上でチャレンジしているつもりではあるが、やっぱり平坦な道のりではない。
が、それでもやっぱり、リスクを取ってチャレンジしなければ、いずれじり貧になってしまうし、じり貧になることこそが、実は何よりも恐ろしいことだ。
それにしても、誰か僕にお金をくれないだろうか?
僕は、原則として仕事は断らないことにしている。
別に、がっつり稼ぎたいとか、そのような理由ではない。
自分が誰かに何かを注文した時に、「忙しくて引き受けられない。」と断られたら、なんだか寂しく感じられるので、僕からは断りたくないのだ。
ただ、ここ2年くらいは、今制作中の本に打ち込むために、いくつかの仕事の依頼をお断りしたりもした。
が、やっぱり自己嫌悪の思いが残った。時間がないなら時間がないで、事情を話して、「このレベルならできる」、などと自分ができる範囲を提案し、その上でどうするかを相手に選択してもらうべきだった。
ともあれ、今回の本作りのために残された時間はあとわずか。
それが終われば、寄せられる依頼にはすべて応えるつもりでいるのだから気が楽だ。そして次は、従来の定番の写真の仕事と新しいことへのチャレンジを、上手に両立させたい。
明日はお金の勘定をして、残りわずかな資金を使い果たしてしまわないように、そしていかに有効に使うか、検討しなければならない。
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2010.10.2(土) レンズの性能

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX
「クオリティーの高い画像を得るには、道具の中で、何が一番大切なのですか?」
と時々聞かれることがある。カメラの性能なのか、レンズなのか、画像処理なのか・・・
もちろん、そのすべてが大切であり、どれ1つおろそかにはできないが、それでは、質問の答えになるまい。
その中でも何か最優先されるべきかと言えば、それは状況によって異なり、自分が何をどんな状況で撮りたいかが決まれば、一番重要な道具が決まる。
たとえば、クモの巣に付着したキラキラした小さな水滴を撮影するのなら、レンズの性能が命であり、高性能なレンズとそうでないレンズとでは、かなりの差がでてしまう。
逆に、状況によっては、高価なレンズでも安価なレンズでも、ほとんど違いが出ない場合もある。そんな場合は、レンズは別に何でもいいことになる。
厳密にいえば、キラキラした小さな水滴の撮影だって、光の角度や光の質によってレンズの違いがそれほどでないこともあり、僕が主張しているのは、そのキラキラを最高に輝かせようとした場合の話である。
さて、ニコンの AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) というレンズは、お手頃価格で、小型軽量。大変に扱いやすい便利なレンズなのだが、水滴のような高性能なレンズが求められるシーンで使用すると、やはり安価なレンズであることがあらわになってしまう。
昨日の早朝、このレンズで撮影した写真は、水滴のハイライトの部分がきれいな像を結んでおらず、大半が使い物にならなかった。
一般に、高性能なレンズは大きくて重たくなるので、つい、お手軽なレンズを選んでしまうが間違えだった。
ガッカリではあるが、自分の横着が招いた結果。今回の失敗を、肝に銘じようではないか!
ボツにせざるを得なかったものの中には、ちゃんと写っていれば大変に素晴らしい内容のものもあったし、本当ならそれが売れるはずだったことを思うと、もう、数万円の損失が出てしまったかのような心境だ。
もちろん、逃がした魚は大きいのだ。
山に登るのなら、道具を軽くせざるを得ないが、そうではない時には、望遠レンズは、やはり単焦点レンズがいい。
そういえば、先日高いところのカタツムリの撮影に、野鳥撮影用に持っている高価で巨大なレンズを使用したら、それはそれは、素晴らしい切れ味だった。
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2010.10.1(金) 壁
構成担当の凹山さんと一緒に準備した本を出版社に送り、編集のOさんにみてもらい、赤字を入れてもらったり、時には駄目だしをしてもらう。
すると、もう手が尽くされており、終着駅近くまでたどり着いていると思っていたものが、また前に進み始める。
「あれが撮りたい」
とか
「こんなことができるじゃないか!」
などと、いろいろな欲望が湧いてくる。
さらにその欲望の中には、今現在作っている本に関するものばかりではなく、全く別のまっさらな企画に結びつきそうなものまでもが含まれている。
「あれを撮っておくべきだったのに・・・」
という後悔もある。
編集者の役割は、作り手が乗り越えなければならない一種の「壁」であり、その壁は、どうせ超えるのなら、自分が超えられる範囲でなるべく高い方がいい。
壁が高ければ高いほど、後になって振り返ってみると明らかに得られるものも多い。
赤字が入れられたものに目を通すのは、まるで入学試験の合格発表を見に行くかのようであり非常に心臓に悪いが、それが新しいアイディアに転じる瞬間は、何とも言えない快感でもある。
写真家にもいろいろな考え方があり、中には、作品の内容にあまり口出しされることを嫌う方もおられるようだが、僕の場合は、自分の思い通りになるのなら、本を作る意味はあまりない。
自分の思い通りにしたいのなら、WEBか、写真展か、紙の媒体が好きな人は自費出版をすればいいような気がする。
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